善と義務第三時代の外典は、アウレリオンに都合のよい道徳的二分法を拒む。神々は原理であり、犠牲は競合する力を養い、道の終着点を誰も知らない世界で「善」は義務を果たすことへと還元される。善に代わる義務『善と義務の外典』は、アウレリオンの啓示された法として提示されていない。世界の内部に保存された危険な論争文である。第三時代の匿名年代記作者に帰され、「燃える羊皮紙の修道会」の廃墟から発見されたと伝えられる。最初の挑発は形而上学より先に政治的だ。白王たちは、アポロを善、キュベレーを悪と呼べる理解しやすい二元論を教える。兵士、信徒、行政官にとって便利な教義である。外典はその単純化を拒む。より古い宇宙論の文法では、アポロは秩序、キュベレーは混沌であり、両者は均衡に属し、どちらも人間的美徳へ綺麗には対応しない。文書はまず、読者から最も簡単な道徳の羅針盤を奪う。その代わりに来るのは義務からの自由ではなく、さらに苛烈な不確実性である。書き手は、魂がどこへ行くのか、死後も人格がそのまま残るのか、人が不死と呼ぶものが別の形で存続する記憶にすぎないのか、誰も知らないと認める。それでも世界は支払いを要求し続ける。義務は呼び、犠牲は返答を求め、行き先が隠れていても勘定は記録される。ここから外典は最も不穏な主張を導く。アウレリオンで「善」は、利他的な慈善というより「果たされた義務」として経験される。自分の役割へ忠実であることは一本の糸を進み続けることであり、それを破ることは模様を断つことである。しかし、その糸が到達する価値ある場所を文書は一度も証明しない。英雄観も同じ論理に従う。宇宙戦争の正しい側に立つことが英雄を定義するのではない。文書は、そのような「正しい側」が存在すること自体を疑う。英雄とは、本を最後の頁まで読み、代価を正義だと偽らずに支払い、最後の債権者が誰かも知らぬまま進み続ける者である。だからこの外典は、アウレリオンの「意志」の教義と並べると特に居心地が悪い。意志が「機能に従うか、逆らうかを選べる能力」なら、義務が高貴なのは選ばれたときだけかもしれない。同じ義務も、王冠、教団、氏族、機械から押しつけられれば、自由を別の形式で整形しただけになり得る。写本はこの矛盾を解決しない。保存する。後代の白灰異端審問官による傍注は、この文書が教義ではなく秘密として残った理由を説明する。注釈者は、一般人から明快さを奪うから危険だと断じる。公的信仰にとって「アポロ=善、キュベレー=悪」の方が単純で、強く、統治しやすい。その一方で「別の勘定も存在する」と認めたため、傍注は意図せず外典の中心的疑念を補強してしまう。『善と義務』が価値を持つのは、アウレリオンが客観的に何であるかを告げるからではない。神学、道徳、行政が、まったく異なる目的のために同じ言葉を使い得ると世界内部の知性が気づいた記録だからである。